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PROJECT STORY02

HANSHIN
DAISHINSAI

日本の防災に貢献。がれきの街を歩いた
阪神・淡路大震災の災害調査

阪神大震災災害調査
1995年

災害大国、日本。なかでも甚大な被害をもたらすのが地震だ。中央開発では1983年の日本海中部地震より災害調査を実施。1995年の阪神・淡路大震災においても、発生直後から調査を開始し、2週間後にはその報告書を発表することで大きな反響を呼んだ。現場はどのような状況だったのか。そして、どんな思いで臨んでいたのか。当時を知るメンバーに話を聞いた。

PROJECT MEMBER

理事
束原 純
技術士(建設部門、総合技術管理(建設))
取締役
橋本 和佳
博士(工学)
技術士(建設部門)
事業本部 品質管理部
神原 隆則
技術士(建設部門)
技術センター 情報管理室
小野 諭
博士(工学)
技術士(建設部門、応用理学部門、
環境部門、総合技術管理(建設))
東京支社 技術部(取材時点では定年退職済)
斎藤 正男
技術士(応用理学部門)
※内容および社員の所属は、取材当時のものです。
「これは尋常な被害ではない」
1995年1月17日(火)、午前5時46分52秒──。休み明けの朝、まだ眠りから覚めやらぬ日本に文字通り激震が走った。当時、関西事業部で技術員をしていた橋本は、震央からおよそ50km離れた東大阪の寮でも激しい揺れを感じたという。

「あまりの揺れに飛び起きました。発生直後はまだ被害状況がわからず、とりあえずその日は車で出社しましたが誰も来ていませんでした。大阪市内でも堤防などが液状化していたので、これはただごとではないなと思いましたね。」

地震発生の瞬間、何が起こったのか。東京事業部の技術二課で課長代理を務め、後に災害調査チームの一員として現地入りした斎藤は、まさにその瞬間を目撃したという電力系会社の巡視員に出会った。彼いわく、六甲山で巡視中、「淡路島のほうからゴー…という地鳴りがして神戸の方に近づき、その後、ドンという衝撃の後に神戸市街の大きなビルがバタバタと倒れていった」という。
メディアを通じて被災地の様子が明らかになっていったのは、当日の昼頃。阪神高速道路が横倒しになり、道路は液状化し、至るところから激しい炎が上がっていた。

当時、関西事業部で技術課長を務めていた束原は、すぐさま「神戸在住の社員の救援、支援物資の送付と、液状化調査を含む初期の被害調査を決めた」。

液状化の被害が大きかった場所のひとつが、当時の技術部長の住居があった神戸市のポートアイランドだ。彼が地震発生直後からバイクで被災地をまわり「これは尋常な被害ではない」と判断し本社へ報告したことを機に、中央開発は全社を挙げて被害調査に乗り出した。
見渡す限りのがれきの街を、歩いて調査
震災直後の被害調査では、メンバーは防寒具に身を包み、神戸市の地図を手に「これは全壊」「これは半壊」と事前にすり合わせた基準をもとに家屋の被害状況をマッピングしていった。

調査を進めるにつれ、従来の基準をはるかにしのぐ被害状況が多数確認されたため、その地点の震度はメンバー合意のもと「超震度7」とした。

「ちょうど前年にロサンゼルスで地震があり、高層タワーが倒壊するのをテレビで見たばかり。日本でも同じ日に同じような現象が起こるのかと、大地震の偶然性とか地球の不思議に驚きました」

そう語るのは、大阪の調査部で次長を務めていた小野だ。道路が寸断されていたため、船や電車で行けるところまで向かい、あとは徒歩で被災地を周ったという。

「あのときは足をひきずりながら1日6~7時間は歩いたと思います。私がまわった長田区周辺は戦後の焼け野原のようで、見渡すかぎりのがれきを目の当たりにして茫然としました」と調査団の一員だった神原も当時を振り返る。
彼らが作成した被害状況のマッピング図
後に、他社との協業により詳細なマップの作成に携わった斎藤も「神戸市役所やホテルなど高層の建物が崩落しているのを見て、これが早朝ではなく昼間だったらと思うとぞっとした」と、目に焼き付いている光景について語ってくれた。

がれきの山を越え、立ち入り禁止の場所や異臭が立ち込めて近寄れない場所も後日調査を実施。そして、約2週間かけて神戸市一円を調べ上げた調査結果を、中央開発として一枚の地図上に色鉛筆でまとめ上げ、学会に発表した。
東京新聞1995年1月31日 一面
学会で大きな反響をもって受け入れられただけでなく、1月31日には『東京新聞』の一面に「超震度7」の見出しと共に、当社が作成した被害マップ(震災の帯)が掲載。

同記事中には当社のコメントとして「同じ震度7の地域でも被害程度に大きな差があり、一律に7とするのは無理がある。7の上にもう一つランクをつくるなど、震度階級を見直す必要がある」との言葉が紹介された(その後、1996年4月の震度階級改定により現行の10段階となった)。

その後も現地を歩いてまわり、より詳細な調査報告書を作成。震災発生からちょうど2か月後となる3月17日に発表し、阪神・淡路大震災における災害調査は区切りを迎えた。

彼らをはじめ、多くの社員の手により完成した「阪神大震災災害調査報告書」は、NHK、フジテレビ等の主要放送局でTV報道され、彼らが撮影した写真の数々は朝日新聞社「報道写真全記録-阪神大震災-」に掲載された。
災害調査は、地盤調査会社の使命
災害調査そのものは1983年の日本海中部地震から実施しているが「防災」「減災」という観点での貢献は、この阪神・淡路大震災の調査が第一歩となった。

中央開発として発表した被害マップや災害報告書は、先述の震度階級の見直しに一役買ったほか、現在も防災関連の資料などで引用されているのをよく見かける。当然、自社の防災関連のプロダクトにも役立てられていることは、言うまでもない。

中央開発は戦後、焼け野原となった国土を復興するために創業された地盤調査会社をルーツに、事業領域を拡大してきた建設コンサルタントだ。被災した人が、街が、力強くもう一度立ち上がるためには、盤石な地盤が欠かせない。
神原が「災害は地盤とは切っても切り離せないもの。地盤調査のコンサルタントとして災害調査を行うことで、地形や地質、地盤との関係性が明らかになれば自ずと本業にも活きてくる」と言うように、災害調査と本業は表裏一体なのだ。

災害調査に人を割けば、本業を行う人出は減る。しかし、中央開発はこれからも強い意志をもって災害調査をつづけていく。災害の真の原因究明を進め、現場にしかない答えをいち早く見つけ出すために。そして、創業から連綿とつづく使命を、次世代へつないでいくために。
大地に、
そして心に残る
仕事をしよう。
中央開発では、働く環境を考え、
一緒に課題に挑める仲間を募集しています。
私たちと一緒にニッポンを作っていきませんか?
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